歩いて発見!となみ野サマーチャレンジ2013 3日目も無事ゴールしました。
3日目にしてようやく晴れのスタートになりました。
城端中学校を出発し、桜ケ池で朝食を食べて、国道304号を一気に1人も遅れる事無く歩き切りました。
トンネルの入り口で小雨が降ったものの、五ヶ山トンネルを抜ける事には雨もあがり、サマチャレ日和!
世界文化遺産の相倉合掌集落を訪れて、予定よりも早く平行政センターに到着しました。
夜は、班毎に考えた寸劇で盛り上がりました。
この投稿は 2013/08/22 5:01 PM に ニュース カテゴリーに公開されました。
この投稿へのコメントは RSS 2.0 フィードで購読することができます。
コメントを残すか、ご自分のサイトからトラックバックすることができます。
2013/08/22 at 11:13 PM
初めてコメントさせて頂きます。
砺波市在住で小学生2人の母親です。
となみ野100キロのチャレンジ、お疲れ様です。現在行っている最中にこのコメントを送るのはどうかと思いつつも、子供たちのためと思い書かせていただきます。
結論から申しますと、現在のとなみ野100キロ徒歩の旅への取り組み方へ疑問を持っております。
私の娘たちは参加したことが無いのですが、数年前に娘の友人が参加しておりました。また高校生で過去にとなみ野100キロに参加した女の子の知り合いです。その子たちの話を聞いたり、TSTで拝見したり、また実際、偶然にもわたし自身、徒歩の旅の最中に出くわしたこともあったりするので、それがすべてではないと思うのですがそれらを元に言いたいことが、現在のやり方は間違っていると思う、ということです。
まず第一に、子供たちがとなみ野を徒歩で歩く、ということの意味がまったくなくなっていると思います。子供たちは大きな声で掛け声をしながら歩いていました。声が小さいと、大学生に怒鳴られていました。よそ見をするとそれも怒鳴られていました。本来、掛け声は、つらい坂道や後半にばててしまった時にみんなで声を出してチカラを出すためにしていた、と聞きました。今はいったいなんのために声を出しているのでしょうか。また、よそ見をしてはいけない、というのもまったく意味が分かりません。本来、となみ野の風景の中を歩くことに意味があったのではありませんか?私が出くわしたのは2年前の瑞泉寺での木彫刻キャンプ会場でした。子供たちはまったくその風景を見る事なく、足早に会場を通り抜けていきました。本当に、ただただ通り抜けただけでした。聞いたところによると、普通に歩くよりはるかに早く歩いているそうですね。せっかく、町の人々に触れ合うチャンス(場)があるのに、ただ歩くだけでいったい子供たちはなにを学べるのですか。忍耐力は学べるかもしれません。しかしそれでは貴殿のサイトにあった「地域への愛着を含むアイデンティティーの崩壊や、心の豊かさを養う体験教育の不足」を補うことなど絶対ありえない状態だと感じます。現在の様子を見る限り、どこかのジムへ赴き、5日間ウォーキングマシーンで歩かせているのとほとんど変わらないと思います。町で出会った人々と挨拶を交わせるくらいの余裕すらない徒歩の旅になんの意味があるのでしょうか。
次に、参加している大学生と子供たちとの関係性が全くなっていない、と感じます。厳しくするな、とは言いません。厳しさは教育に必要だと私も常日頃思っております。しかしながら、子供たちの間でこのような会話があったことをご存知でしょうか。
「リーダーとサブリーダー、どっちが嫌い?」
娘の友人が、参加していた時に影でこういう会話ばかりしていた、と聞きました。
思うに、関係性が出来ていないのに、5日間ひたすら怒鳴っているだけなのではありませんか。歩き終わって、どこかの体育館などに着いたときや食事の時ですら、大学生は厳しいままだと伺いました。また、「愛情は終わってから親が与えればいいから優しくしなくていい」と大人が大学生に言っていた、とも聞きました。一日中、厳しく怒鳴るだけの人に、子供たちは信頼を寄せるでしょうか。しかも、出逢ってすぐの、いわば赤の他人にです。せめて、食事の時や就寝前など、楽しく遊ぶ時間を作って信頼関係を築くべきです。それがあるからこそ、厳しい言葉が子供たちに響くのです。
また、過去に参加経験のある高校生の子は、「昔は、リーダーっていうのは自分達にとってヒーローだった」とも言っています。信頼関係があれば、同じ“歩く”でもこうも違うのです。厳しくする事で子供たちが成長できる、ということがどこかでねじ曲がってしまい、ただただやみくもに怒鳴るだけになりつつあるのではないのでしょうか。一部ではありますが、ママ友の間でも「昔と比べてダメになりつつある」という話題が出ています。
TSTで拝見しましたが、最後のゴールが終わった後、大学生が泣いていました。それはもはやただの自己満足にしか思えませんでした。大人たちもそうなのではないのでしょうか。客観的に見るとそのように感じられます。
子供たちが100キロを完歩出来た時に味わえる感動は本来“達成感”であるはずです。あれでは“開放感”でしかないように思います。小学生の子供たちの感想文にはきっと、「みんなと力を合わせて歩ききることが出来た」「成長できた」というような、いい事がたくさん書いてあると思います。小学生の文章ですから、そう書くのが普通です。なにかにチャレンジして、やらなくても良かった、と感想文を書く小学生などいません。だからこそ、大人たちが本当に意味のあるチャレンジをさせるべきだし、意味のある・愛の伝わる教育をすべきだと思うのです。
みなさまはきっと、となみ野の子供たちを思ってこのような活動をしておられるのだと思います。そういった方たちがいることは、子を持つ身としてもとても嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいです。そういったみなさまだからこそ、あえて苦言を呈させていただきました。長々と乱文を失礼致しました。となみ野の子供たちのためにも、何卒ご査収いただきますようお願いいたします。
2013/08/23 at 7:04 PM
コメントありがとうございます。
PEACEとなみ野会長の神下です。
事業期間中ですので細かいお返事はできませんが、現在4日目の宿泊地で夕食を終えた所です。
スタッフも子供たちも楽しく食事をしておりましたし、今回もとなみ野のあちこちで地域の皆さんから声援を受けて子供達やスタッフもそれに応えて手を振り返していました。
名所や旧跡を巡って直に触れ合ったり、それ以外にも歩きながらとなみ野の素敵な風景に触れる事も意味があると思っています。
残念ながら今日は雨で見られない景色もありましたが、歩いているので水路や段差があって危険な場所でよそ見をすれば当然注意をしていますし、苦しい状況を乗り越える事で生きる力を醸成する事を目的としていますので、みんなで声を出す事にも挑戦しています。
数年前の木彫刻キャンプへ立ち寄った事も覚えていますし、私の知人もそこで作品制作に取り組んでいましたが、じっくり見学をしてその素晴らしさを実感する状況にはありませんでしたので、通過して本来の目的地へ移動しました。その時にも、4年に1回の取り組みである事なども伝えて、興味があれば是非じっくり訪問することを勧めていました。(子供たちが製作途中の作品をどう感じていたか解りませんが、今回のコースで木彫りの里を歩いた時に見かけたものの中にもあるかもしれません)
参加した子供たちの受け止め方は色々だと思いますので、全てを正確に把握はできていないでしょうし、指摘をいただいた様な感じ方をしてしまった子供が居る事は残念ですが、2年や3年続けて参加してくれる子供達は違った感じ方をしてくれているのだと思いますし、現在は高校生や大学生になって、スタッフに取り組んでいる学生も居ます。
指摘いただいた様な事が再発しないように、更に事業の充実を図っていきたいと思います。
私自身も感動しやすく毎回反省をしておりますが、学生スタッフの涙が単なる自己満足であるかどうかは、テレビでは伝わらない部分もあると思いますので、是非明日のゴールを御確認いただければと思います。予定では、14:30頃にはゴールできる予定です。
2013/08/26 at 5:18 PM
こんにちは。 私は以前学生スタッフとして参加させていただいておりました、金山文香と申します。 私の実家は立山町ですが、大学時代にこの事業に出会い、今ではとなみ野を第二のふるさとだと思わせていただいています。
さっそく本題ですが、率直に申し上げますが、コメントを見て私は非常に悲しく残念に思いました。
悩みながら子どもたちと真剣に向き合っていたつもりでしたが、子どもたちには受け入れられていなかったのでしょうか。
確かに厳しく叱る部分もありました。しかし、恥ずかしながら、そこには愛情があったと私は思っています。将来子どもたちが少しでも今日のことを思い出してくれたらいいな、思い出さなくてもいいから素敵な人になってほしいなとただただ願いながら、一言一言を大切にしたつもりでした。
教育には正解も答えもないと思っています。 ただ、今まで見てきた教員という人たちとは違い(教員にも色んな方がいらっしゃいますが)、自分の考えを押し付けるのではなく、子どもたちと一緒に成長していこうと本気で悩み本当で向き合う、そんな仲間が大好きでした。
あまり文章を書くのは得意ではありませんが、私の思いを少しだけ書かせていただきました。 是非いつか会ってお話しさせていただければと思います。 上手に話す自信はありません。上手く言えないかもしれません。 ですが、真っ直ぐに向かい合いたい。 それが私の願いです。
最後になりましたが、コメントをいただきありがとうございます。